今日一日を100%生きる
南三陸町では東日本大震災で6割以上の家屋が全半壊し、約2,700戸の仮設住宅が造られました。住み慣れた自宅を離れることを余儀なくされ、不自由な暮らしに悩む高齢者は少なくありません。震災発生直後から、災害ボランティアセンターを切り盛りし、福祉の面からも復興に取り組む南三陸町社会福祉協議会の猪又隆弘事務局長に伺いました。
「生きたかったら、ここに残れ」
「明るく、生きがいを持って高齢者が生活している地域にしたい。震災であれほどのダメージを受けたのに、その後は穏やかに過ごせたと、そう思える人生を町の方々に歩んでもらいたいんです」
こう語るのは、社会福祉法人南三陸町社会福祉協議会事務局長の猪又隆弘である。志津川町(現・南三陸町)に生まれ育ち、高校を卒業後に仙台に進学、和食の料理人に憧れたが、一人っ子のため夢を諦めて家を守るために20歳で帰郷。以降、南三陸町で福祉の世界一筋に歩んできた。
「あの日は朝から町の老人クラブの演芸発表会があり、司会をしていました。毎年恒例となっているイベントで500人以上が集まり、普段の練習の成果を披露して、みんなうれしそうにしていました」
全ての出し物が終わり、猪又が締めくくりのあいさつをした途端、グラッと大きな揺れが来た。天井にはたくさんの照明が吊り下がり、猪又は落ちてこないか気が気ではなかった。
「揺れが収まると、パニックになった老人たちが次々と会場から出ようとし始めました。私は慌てて階段に仁王立ちになると、『生きたかったら、ここに残れ』と叫んでいました。会場の高野会館は、海岸沿いに建っているとはいえ、4階建てで津波発生時の避難ビルでしたし、高齢者の足ではもう高台まで避難するのは無理だと思ったんです」
津波が来るまでには、まだもう少し時間があるだろうと判断し、自身は社協事務所に向かった。福祉施設が集まる「福祉の里」に着くと、海に煙が上がり、津波が迫っていた。津波は河川をさかのぼり、内陸の奥深くまで被害が及んだ地域もあれば、沿岸部でもそれほど浸水しなかったところもあった。水の動きが全く予想できない中、猪又は高齢者と福祉の里の裏の急斜面を上り、できるだけ高いところにいったん逃げた。町を見下ろし、逃げ遅れそうになっている人が見えると、救援活動に戻ったりしながら、広域避難場所の志津川高校に何とか避難した時には、すでに午後6時を過ぎていた。
皆ずぶ濡れで、暖房は小型石油ストーブが一つだけだった。校庭でたき火をして暖を取った。その日、津波は、引いては寄せる形で何度も襲来した。
「夜になると、暗くて何も見えない中、波の音だけが聞こえていました。深夜には雪が降りだして冷え込みが一層厳しくなり、寝ようと思っても全く眠れませんでした。夜が明け、瓦礫だけになってしまった町を目視していたら、建物が残った高野会館の屋上で人がかすかに動くのが見えたのです。ああ、助かったんだとほっとしました」
あの日、高野会館にいた高齢者は、猪又のとっさの判断によって、全員無事救出されたのだった。
「振り返らず、今日をどう生きるかを考える」
しかし、福祉の里は全壊。数十人の利用者と社協の職員が亡くなった。猪又の家と家族は無事だったが、町職員で妻の美智恵さんは津波に遭い、今も行方不明である。
3月26日にテントを張って災害ボランティアセンターを立ち上げ、毎朝5時に出勤して、凄まじい量の課題に対処した。気が付くと1年半、休暇を取っていなかった。瓦礫の処理が済み、仮設住宅が建設されると、猪又が重点的に取り組んだのが、被災者の心のケアだった。
「震災発生直後は緊張感で心が保たれますが、時間と共に変わってきます。住みづらく、悲しみが大き過ぎて動きたくなくなる生活不活発病や、アル中、自殺、孤独死……。その対策として、デイサービスのニーズが高まりました」
震災前、南三陸町には2カ所のデイサービスがあったが、福祉の里が全壊したため歌津地区のみになっていた。デイサービス不足が深刻化し、三菱商事復興支援財団の支援を受け、入谷地区と戸倉地区に新設することにした。
入谷地区のデイサービスは2013年3月に完成し、月延べ200人が利用している。窓枠や手すり、床、テーブルなどの調度は木目で心が安らぎ温まるデザインにした。利用者は午前中から訪れて体操をし、しりとり遊びをアレンジした脳トレなどを行い、入浴し、食事をして休息を取り、おしゃべりを楽しむ。「被災を免れた歌津のデイサービスは定員25人ですが、こちらは定員9人なので、よりアットホームに利用者と接することができます」とスタッフは話す。
戸倉地区のデイサービスも2014年1月に落成式を迎え、従業員の新規雇用も生んだ。今後は配食サービスをはじめ、元気な高齢者の雇用も考えるなど、福祉のさらなる充実を目指す。
「あの日のことを思い出すと今でも身がすくむ思いがします。だから振り返らず、今日をどう生きるかを考えます。今日一日を100%で生きて、それを積み重ねていく以外ありません。震災後、日本全国の人や海外からの支援が生きる希望になりました。町に来てくださると心強くて、今日も有難い、じゃあ頑張ってみるかと思います。復興は供養でもある。一日も早く町を復興させたいと考えています」
(敬称略)