産業復興・雇用創出支援
支援先紹介 | 株式会社八木澤商店

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創業200年を誇る、陸前高田の老舗醸造業である八木澤商店。自社のみならず、被災者や地域の経営者仲間の救済に奔走していた河野通洋は、震災発生翌月に9代目社長となることを決意。そこへ奇跡が起こります。さまざまな人たちに支えられた、再建までの道のりを伺いました。

「地域経済を支える、地元中小企業は
1社たりともつぶさない」

河野通洋社長

「津波で工場、事務所、店舗と全てを失いましたが、震災から2年8カ月、念願の醤油の初搾りにようやく漕ぎ着けました。これからは『被災地東北に光を』ではなく、『東北が日本の光に』なるように目指します」

力強く語るのは八木澤商店の河野通洋社長である。八木澤商店の創業は、1807年。伝統の製法にこだわった「生揚醤油」や「おらほの味噌」などで知られた、200年余の歴史を刻む老舗醸造業で、看板のヤマセン醤油は、2003年の全国醤油品評会を皮切りに、最高賞である農林水産大臣賞に三度輝いている。

河野は地元の高校を卒業すると、砂漠を緑化するという気宇壮大な大志を抱き、米国に留学。しかし、実父で先代社長・和義の病気を機に帰国した。地元ホテルでの修業を経て、1998年に八木澤商店に入社。この年、集中豪雨で工場の一部が浸水し、生産中断で赤字に陥ると、河野は経営改善に我流で挑んだ。ひたすら利益のみを追求したのだ。業績は回復させたが、情のない経営に社員の心は河野から離れた。父の助言は耳に入らなかったが、不思議と地元の中小企業家同友会の先輩の忠言には耳を傾けた。円形脱毛症になるほど悩みながら、社員と少しずつ信頼関係を築いていった。

この間、河野は他に二つのことに力を注いでいった。一つは、国産原料の使用比率の向上だ。地元農家との契約栽培品を購入し、自らも生産を始めた。また農家の老人たちと連携して、地元の子どもたちに食育の活動をしたり、地元飲食店に地域の生産品を薦めたりしながら、地産地消による循環型地域づくりを進めていった。

もう一つ力を注いだのは、中小企業家同友会の活動だった。資金繰りが厳しいという会社があればいっしょに棚卸しを行い、伝票も整理しながら、経営再建計画を立て、金融機関にもバックアップをお願いするなど、お互いに支え合っていったのだった。中小企業の経営者がたゆまぬ努力で新しい仕事と雇用を毎年生み出していったら地域は衰退しないはずだ、という思いがそこにはあった。

「経営で一番大事なのは信用、約束を守ることだろう」

「あの日は、今まで一度も棚から落ちることのなかった商品の醤油が地面に散乱した。これはただ事ではないと、津波の襲来を確信しました」

河野は、避難場所である神社の境内に、近くにいた全社員と逃げた。第1波、想定外の第2波にここも危険、と判断し、さらに高台の裏山へ。河野は社員や付近住民の先導役を務めながら、社員が懸命にお年寄りたちの手を引いて避難する姿を見て、再建への思いが高まったという。

「この社員たちを守らなければと強く思ったのが、会社再建の第一歩でした」

振り返ると津波の濁流が市内全体を呑み込んでいた。

河野は、所用で上京中だった父に代わり、陣頭指揮を執った。4日間かけ、全社員を家族の元へ送り届けると、中小企業家同友会支部長を務める、高田自動車学校の田村満社長の協力で仮設のプレハブ事務所を同校内に建ててもらった。震災後1週間ぐらいすると、全国の中小企業家同友会の仲間や取引先、知人から救援物資が届き始め、河野たちはそれを避難所などに配る役割を担うことにした。市役所でも全職員の4分の1以上が犠牲になり、救援物資を運ぶ人手も著しく不足していたのだ。

さらに、金融機関のフリーダイヤルを記したビラを、避難している個人事業主に手渡した。経営者自ら電話してもらい、口座を凍結させるためだ。また、雇用維持のための諸制度について説明した資料も配った。県中小企業家同友会支部幹事長として、震災前から「地元中小企業は1社たりともつぶさない」と仲間と誓った一念からだった。河野は毎日のように避難所を回り、仲間一人一人のもとを訪ねては、「絶対に諦めるな」と励ました。「資金繰りが苦しい」との悲鳴を聞けば、夜中でも駆けつけ、帳簿を見ながらいっしょに打開策を練った。

震災翌月の4月1日には社長に就任した。より長期でモノを考えることのできる若い人間が全責任を負った上で「再建します」と言えば、まず社員が安心するだろうし、金融機関や取引先、何よりお客さまも「協力しようか」と思ってくださると考えたからだった。

河野は、38人の全社員の雇用継続を決め、内定者2人も入社させた。こんな状況なのにさらに人を増やすのかと反対する父に、河野はこう反論した。

「親父、今まで俺に教えてくれたじゃないか。経営で一番大事なのは信用、約束を守ることだろう。だから俺は、内定者との約束も守るんだ」

そこへ朗報が届く。被災した樽から醤油や味噌を特徴づける「もろみ」を、旧知のテレビカメラマンがごく少量ではあったが取り出してくれた。さらには、北里大学の海洋バイオテクノロジー釜石研究所で保存されていたもろみが無傷で見つかったのだ。ヤマセン醤油のもろみには、人体に有用なアミノ酸を多く含んでいることが判明しており、4キログラム研究材料として同研究所に提供していたのだった。

だが、生産手段がまだ整わなかった。すると今度は親しくしていた同業者が手を差し伸べた。秋田と岩手の2社、宮城と新潟、埼玉で各1社の醤油・味噌醸造元7社が委託製造を引き受けてくれた。2011年5月、一関市内で空き家となっていた縫製工場を借りることができ、倉庫兼営業所を開いて製品の出荷を再開した。

一関に移転し再建された工場

地元金融機関も後押しを惜しまなかった。グループ化補助金申請に際しては、地元金融機関だけでなく、経営者仲間の先輩が尽力してくれた。

ミュージックセキュリティーズが創設した「セキュリテ被災地応援ファンド」を通じ、全国から資金援助も届いた。先代社長の和義は当初反対したが、「ファンドを使うのは知恵の一つ」と押し切った。4月の募集開始から、わずか3カ月で目標金額の5000万円が集まった。リストを見ると、多くの20代、30代の人たちが、1万円、2万円を出してくれていた。人と人との絆こそが財産という当たり前のことに気付かされた。

財団資金で導入された圧搾機

12年5月には、一関市の廃校跡地を取得して新工場建設に着工。12年8月には、地元・陸前高田市に本社と店舗を新設した。13年秋には三菱商事復興支援財団の出資も決まり、醤油醸造に不可欠な圧搾機を増設し、生産拡大のめどが立った。13年11月には、震災後初めて自社製造した醤油の出荷を果たした。

陸前高田に新設された本社兼店舗

「おかげさまで醤油の“復興の一滴”は果せました。今後は、東北人の力強さを情報発信し、子どもたちが希望を見出せるよう自分たちの手で復興を成し遂げたいと思います」

(敬称略)