福島へ帰るまでの様々な支え
福島第一原発から約9キロメートルの警戒区域内で被災し、創業の地・浪江町を否応なく離れることになったキャニオンワークス。操業再開、そして「浜育ちは浜に帰りたい」との思いから新天地・いわきに新工場を建設。福島への復帰を後押ししたという納入先の社長をはじめとした様々な支えについて、半谷正彦社長に伺いました。
「御社はうちにとって大切なパートナー」
「震災で創業の地を離れざるを得なくなりました。でも、納入先や避難先で励まされ、勇気づけられて、再開を決意できました」
感慨深げに語るのは、縫製会社キャニオンワークスの半谷正彦社長である。
当初、半谷の会社は、伯父の貞夫が東京で立ち上げた登山用具ブランド「マウンテンダックス」のバックパックを縫うなど、その製造を担っていた。半谷はその後、車の座席シートなど取扱品目を増やし、事業を拡げていたところで被災した。
「あの日はたまたま家にいて、当時3歳だった息子が妙にむずかり、あやしていると携帯の地震速報が突然鳴ったんです。それから襲って来た揺れは、立っていられなくなるほど激しいもので、怖がる息子を守るのに精一杯でした」
幸い会社の建物は無事で、従業員にもけがはなかった。しかし余震がひどく、自宅近くの観光施設の駐車場に避難した。ベトナムからの研修生を含む従業員19名、半谷の家族らと親戚の総勢33名だった。
当初は1~2日で帰れると思ったが、翌朝の防災無線で福島第一原発の放射能漏れの恐れを指摘され、国道114号線を西へ避難するよう指示された。東京に住む伯父の貞夫がペンションを手配してくれ、車を5台連ね、一路猪苗代方面へ向かった。途中、高校の同級生宅で炊き出しも受けながら、ようやく会津若松に到着したのは4日目の夕方のことだった。しかし安堵したのも束の間、被曝スクリーニング検査を受けるのに寒空の下、3時間待たされる。目的地である建物に入れたのは、結局午後10時となり、最後までつらい暗夜行となった。
慣れない地震におびえるベトナム人研修生だけでも避難させてもらえないものか、と納入先の田島縫製へSOSを発信すると、翌々日の早朝、救援物資を抱えて迎えに来てくれた。その御礼に半谷が群馬県千代田町を訪れると、何と倉庫が空いている。ここを借りられないものか打診してみると、「御社はうちにとって大切なパートナー。できるだけのことはさせてほしい」と社長が即断即決で許可してくれた。おかげで仮住まいとはいえ、3月半ばという驚異的なスピードで操業再開へ歩み始めた。
納入先の社長に大切なパートナーと言わしめたものは何だったのか。それは日頃から納入期限を厳守するなど、当たり前のことを当たり前にする、半谷の律儀で実直な性格だった。
「地域貢献し、支援頂いた方々への感謝を表していきたい」
この間、伯父の尽力で茨城県つくば市に8世帯分のマンションが確保できた。半谷の一行は、茨城~群馬間を毎日往復4時間かけて通勤した。それを見かねた田島縫製の早川智常務は隣接する明和町の恩田久町長にその事情を説明した。すると今度は町長の号令一下、公民館が開放され、布団まで用意してくれた。つくばには週末に帰るだけで済むようになり、2011年9月には売上げを震災前の3分の2まで回復させた。
そして2012年12月、福島に帰る決意をする。福島に家族を残し、単身で勤務していた従業員の「故郷に戻りたい」との声を受けて決断した。「浜育ちは浜に帰りたい」という一念で、いわき市に土地を確保した。キャニオンワークスは、半谷の父の正夫が立ち上げた会社だが、多大な投資も伴うだけに、「息子が言わなかったら、福島には戻らなかった」と正夫は語る。移転を決めると同時に「責任を持て」と社長を譲り、会長に就任した。
2013年10月に造成を開始し、暮れも押し迫る12月に着工、いわきの新工場は2014年春に完成した。約1万平方メートルの敷地に2棟の工場が立つ。第1工場では、車両用座席シートやダイビングスーツを製造し、第2工場では「マウンテンダックス」などのアウトドア用品を中心に造る。これまで施設が手狭なため、依頼された仕事を断ることもあったが、新工場の竣工により、取り扱う品目もカフェ用のパラソルや業務用保冷ケースなど順調に増えつつある。
「おかげさまで、新天地いわき市に自社工場を構えられました。浪江町商工会が、グループ化補助金や企業立地補助金を紹介してくださいました。またメインバンクのあぶくま信用金庫には、融資のほか、三菱商事復興支援財団を紹介いただきました。もちろん田島縫製、明和町のご厚意には感謝の一語に尽きます。父が築いてきた会社と社員を守り、安心感のある製品を届けて事業を継続していきたい。将来的には浪江の工場も再開できればと思います。福島の雇用創出に微力を尽くすことで地域貢献し、支援いただいた方々への感謝を表していきたい」
(敬称略)