産業復興・雇用創出支援
支援先紹介 | 株式会社三浦商店

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過去、度重なる津波の被害を受けながら復興を遂げてきた岩手県 洋野町。この町で三浦商店は、こだわりの製法でしめさばを作ってきました。町と海と共に復興を果たそうとしている三浦勝年社長に、再建までの軌跡を伺いました。

「これは何かの間違いだ」

三浦勝年社長

「私は決して海は恨んでいません。これからもとことんつきあっていくつもりです」

穏やかな表情の中にも、固い決意をにじませて話すのは、三浦商店の三浦勝年社長である。

岩手県最北部に位置する洋野町。八戸港を臨み、久慈から八戸沖で獲れたほどよく脂がのったサバがふんだんに水揚げされる。三浦商店の主力商品はなんといってもしめさば。酢の絶妙な締め具合と、身の中央のとろりとした脂の乗り具合から、感動のトロしめさばとも呼ばれる。

「酸味を抑え、刺身の感覚を残しつつ、甘さもある。女性や子どもにも食べやすいと好評で、しめさばの本場である関西中心に、関東や北海道まで商圏を広げていきました」

自慢の〝トロしめさば〟は企業秘密のこだわりの製法で一つ一つ手作りしている

そこへ地震と津波が襲う。その日、洋野町では朝から雪が降っていた。駅前では除雪車が稼動し、三浦商店の加工場では8時から作業が始まった。今日も平穏な一日が繰り返される、そんな三浦の日常を東日本大震災が揺さぶった。

しめさばなど海産物の加工品を扱う三浦商店の工場は2階建て。約400平方メートルある1階で魚の仕分けをし、2階の加工場で作業員の手によって一つ一つ商品を製造する。当時、加工場には40人近い作業員が詰めており、揺れを受けてすぐに降りてきた。

「洋野町は過去にも三陸沖地震やチリ地震による津波被害を受けてきました。その意識はみんなに刻み込まれている。今回の地震は下から突き上げるように襲ってきた。地震発生5分後には、会社から100メートル離れた、高さ30メートルにある神社に避難させました」

高台への迅速な避難により従業員は無事だった。だが、真っ黒い波は堤防を乗り越え、除雪車は横転、津波は工場を突き破る勢いで1階を飲み込んだ。それは過去の津波被害を知る三浦の想像さえ上回るものだった。津波で打ち上げられた漁船が木の葉のように舞いながら工場に衝突するさまを、高台から見守るしかなかった。

「感情がまるで湧きませんでした。これは何かの間違いだ、こんな目に遭わなければならないような、何か悪いことをしたんだろうかと自問自答しながら、ぼうぜんとしていました」

海水が引き、動けるようになった翌日に避難所を回った。当時、2人の子どもは留学などで東北を離れており、洋野町にいたのは妻だけだった。だが三浦は妻だけでなく、地元の人々の安否が気掛かりだったという。海を間近に望み、普段から危機意識を共有してきた洋野町の住民は皆、同じ共同体の仲間という意識があった。妻と再会してすぐ、地元の被害を確認して回った。

人情味のある三浦は、町を代表する産業の事業家としてのみならず、地元の核となる人物の一人だ。以前から取引のあった岩手銀行も、その三浦が洋野町の復興には必要だと感じていた。震災から10日後には担当者が訪れ、「三浦さん、もう一度やれますよ。支店長も支援をお約束しています」と元気づけた。

サバの解凍には工場の沖合い深くで汲み上げた海水を使用している

「その言葉に背を押されました。再建の決断には、洋野町の水上信宏町長をはじめ地元の応援も大きかった。それに工場も全損ではなく、2階の生産機器は無事でした。従業員も同じ頃に集まってきてくれた。彼らの顔を見て『みんなと一緒にまた工場をやれるかもしれない』と思ったんです」

波が引いた後の工場は、津波による砂と泥で埋まり、商品用に仕入れた原魚が散乱する混沌としたありさまだった。操業再開の見通しも立たない中、集まってくれた従業員と始めた復旧作業は実に3ヵ月に及んだ。

「海と私たちは運命共同体」

復旧と平行して、三浦は秋までの事業再開を目指して奔走した。9月からが三陸でのサバの漁期だ。加えて、全国の取引先から寄せられた期待もあった。

「売場の棚のスペースは決まってますから、商品を出荷できなければ他社の商品が埋めるだけ。それを取り返すのは至難の業です。ですが、お取引先の中には、『棚を開けておくよ』『待ってるよ』と言ってくださるところもいらっしゃったのです。ありがたかったです」

三浦商店は、三浦の父が創業。三浦は若い頃、東京の築地で仲買人として4年ほど修業した。午前3時起床、怒られてばかりの日々だったが、魚と関わっていられるだけで幸せと感じていた。三浦商店のしめさばは、三浦が2代目社長になってからのヒット商品だ。

「今回のことは、〝天命〟だと思うことにしました。海と私たちは運命共同体。しめさばにする場合、脂が乗り過ぎても、少な過ぎてもいけない。三浦商店のしめさばには、工場の沖合いで獲れるサバが不可欠です。そのサバが獲れる海を、恨むって感情は湧かないんですよ。だから工場も、海のそばの前と同じ場所から移動する気は全くありませんでした」

事業再開への思いを一貫して後押ししてきたのが、岩手銀行だ。工場の再建費用には岩手県のグループ化補助金を受給できることとなったが、4分の1は自社で負担する必要がある。三浦商店は震災以前からの借り入れがあり、震災による被害総額も3億5000万円という甚大なものだったが、地域の復興支援を重視する岩手銀行は「三浦社長の復興に向けた強い思いとビジョンをサポートしたい」と1億円の追加融資を決めた。

資金繰りにめどが付き、工場は予定通り、2011年9月に再建を果たした。すぐに東京・築地や関西を中心に全国から注文が集まったが、失った販路もあった。冬になり、冷蔵工場の床下の目に見えない部分に残っていた津波による海水が凍結し、追加工事が必要になった。2011年度、2012年度と、震災前に比べ厳しい業績が続いたが、岩手銀行の紹介により2013年には当財団の支援を受けたことを機に、原料となる海産物の買い付けや雇用を拡大した。

再建された工場外観

「今は雇用の枠を70歳の方まで広げて、全国からの注文に応えています。おかげさまで引き合いが強く、ネット販売も好調。高く評価していただいているしめさばを、ゆくゆくは洋野町のブランド商品としたいんです。ユネスコの無形文化財に和食が登録されたように、ひいては世界に洋野町のしめさばを味わってもらいたい」

そう夢を語る三浦の目は、海の向こうを見詰めていた。

(敬称略)