産業復興・雇用創出支援
支援先紹介 | 三陸飼料株式会社

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当財団は、三陸沿岸地域の魚市場や水産加工業者が魚を処理・加工する際に発生するアラなどの残滓を原料に、畜産飼料製造事業を展開する三陸飼料に出資しています。気仙沼は『フカヒレ』の一大産地ですが、サメの残滓を適切に処理できる工場は限られています。同社は、そんな工場を持つ企業の一つ。2012 年秋、気仙沼漁港で一部操業を再開し、2013 年1月には完全復旧を果たしました。 気仙沼の水産業を守るべく、震災で失った代表者の姉の遺志を継いだ現社長に、再建までの経緯を訊きました。

奇跡的に流されずに済んだプラント

「再稼働させたボイラーから蒸気が上がった時は、『やったー、ああ、やっとここまで来ることができた』と感無量でしたね」

こう顔をほころばせるのは足利喜恵子社長。三陸飼料は、魚市場や加工業者から出る魚のアラや血水などを処理し、畜産飼料を製造している。1955年に魚の仲買人だった亡父が設立し、1972年、現在の大川河口付近に移転した。当初は、臭気と汚水を心配する地元住民の反発もあったが、住民説明会などを通じて、残滓から飼料を加工する事業はむしろ公害のない街づくりにつながることへの理解を得た。その後も時代のニーズに合わせて環境に配慮した工場運営を続け、気仙沼の水産業に不可欠な存在と認められた。四姉妹の三女の足利社長は、震災後急遽、3代目を引き継いだ。

調印式にて(右から2人目が足利社長)

「3.11は、予定していた原料タンクの入れ替え工事のため、ちょうどタンクの部分を外して、準備をしていた時でした。それから法事の予定が2件入っていて、ちょうど法事と法事の合間で会社にいた時に被災しました。事務所は連続する縦揺れで、物がばたばたと倒れました。ただ工場は思いの外頑丈で、工場内にいた従業員にはそれほど大地震とは感じなかったようです。津波に備えて避難しておこうかくらいの反応でした」

共同経営していた姉とは別々に避難。取引先と会っていた従業員が帰る時までいて、最後に建物を出たのは姉だったが、連絡がないまま、2週間後遺体で発見された。

「悲しみに打ちひしがれている間はありませんでした。2人で会社の管理はしてきましたが、姉しか持っていなかった代表権を法的に変更したり、ハンコをつくり変えたり、司法書士を見つけて手続きしたりと、やるべきことは山積していましたから」

津波は全ての機械を飲み込んだが、しっかりとボルト締めしていたため奇跡的に流されずに済んだ。

「落ち着いてから工場を見に行ったら、流されずにあったんです。工場の中をのぞくと、機械もあった。ああ、これはもしかすると修理すれば再稼働できるのではと思いました」

工場内のプラント

「三陸さんがやるなら俺もやっかな」

もっとも4月初旬、最初に下見した従業員の意見は悲観的だった。電気系統は全て水没してしまっていたためだ。メーカーの見積もりも、異口同音に新製品を勧める。だが足利社長は機械再生に固執した。

「40年前の移転当時、父が2億円もかけノルウェーから輸入したプラントでした。以後、メンテにメンテを重ね、10年から15年ぐらいに一度部品の一部を取り換えながら、気仙沼の水産業を支え続けてきた愛着の深い機械なのです」

ここで彼女はある恩人の存在を思い出す。その人物は日本に初めて畜産飼料製造のプラントを輸入した静岡の同業者で、父にプラント輸入の仲介をしてくれたばかりか、工場移転に反対する住民への説明会にわざわざ臨席。性能を保証して、臭いや環境汚染の問題を払拭してくれたのだった。

工場外観

「その方はご健在で、矍鑠としていらっしゃり、被災した機械の写真を手に6月に静岡へ半ば強引に押し掛けました。恩人はやはりご苦労された方で、価格のことも良くご存じの上、プラントを隅から隅まで理解していらっしゃるので、『使えるところは、使った方がいい。少しでもお金を掛けず、再生するに越したことはない』と、私の立場と思いをくんでくださいました。そして『大丈夫』と太鼓判を押したばかりか、『上水道があれば下水道もなければならない。それと同じように、魚市場があれば最終的に処理する三陸飼料のような事業者が必要。三陸飼料が再起しないと気仙沼の水産業は終わる』と激励までしてくださったのです。心強かったです。心の支えになりました」

トラックに積んだまま残滓を計量できる

漁港に船が入ってきたとき、水揚げした魚が全て売れるとは限らない。売れ残りが発生するのは、避けられない面もある。それらを市場で買う権利を三陸飼料は持っているので、最終的に船が安心して入港できる。三陸飼料の再開を期待する、取引先からの要請も数多く寄せられ、本格復旧へ向け大きな力となった。

この春に新たに採用された上杉将稀さん(右端)。当財団・鍋島英幸副会長(三菱商事副社長執行役員)視察の際、激励の言葉が贈られた

ただし復旧費用は思いの外かさみ、資金調達が大きな壁となった。しかし幸い父と姉が地元での信用を築いていたこともあり、気仙沼信用金庫が融資を含め全面的な支援を決定。担当者は国のグループ化補助金取得にも協力を惜しまなかった。また三菱商事復興支援財団を紹介し、この支援が事業再開を大きく後押しした。

今年は正月も返上。遂に完全復旧した。「三陸さんがやるなら俺もやっかな」と事業拡大を図ろうという水産業者も現れ始めたという。
「今春には初めて新卒高校生を採用しました。5年かけて一人前に育て上げ世代交代を図り、この事業を長く継続していきたい」
と足利社長。

周りの復旧が遅れ、被災前の状況までは二合目、三合目としながらも、
「新設しても費用は変わらなかったかもしれません。しかし私たちが同じ機械を使い、同じ場所で再開したことは意義深いと思います。紙テープが飛び交い、大漁旗が振られる中出航し、魚を満載した船がじゃんじゃん戻ってくる気仙沼に早く復活できるよう、街に貢献していきたい」
と決意を新たに語った。

(敬称略)