大船渡から世界に向けて
森下水産株式会社 | 森下幹生社長 大船渡の豊かな海産物を加工し、消費者に届け続けてきた森下水産。川をさかのぼってきた津波が工場を直撃したが、いち早く再建を決意し、自ら瓦礫を撤去して操業を再開しました。 地元大船渡の復興へ懸ける思いについて、また新たな事業展開に期する思いの丈を伺いました。
「とにかく前に進みたかった」
「諦めて事業をやめるのも、頑張って復興を目指すのも、いずれにしても相当大変な道のりが待っていました。ならばとにかく前に進みたかった」
こう語るのは森下幹生社長だ。森下水産は、サンマ、イカ、サバなどの加熱商品を全国のスーパーに納めていた。
「3月11日、現場はシーズン初のワカメの加工日で活気づいていました。私は第2工場の生産ラインのリニューアルについて、設計士と打ち合わせの真っ最中でした」
これまで全く体験したことのない大きな地震に、揺れが収まるとすぐ工場にいた全ての人間を外に集合させた。点呼して全員の無事を確認すると、大半の社員を自宅に帰し、自分は工場内の点検のため、男性社員数名と残った。
「確認を終え、高台に移ろうとしていると、『津波だ!』と誰かが叫ぶのが聞こえ、急いで三陸鉄道の線路に上がった。河口方向に目を向けると、真っ黒い水の固まりが工場の横を流れる川をすごい勢いでさかのぼり、橋に乗り上げたかと思うと、桜並木をなぎ倒し、工場をのみ込んだ。あっという間の出来事でした」
森下はその夜、中国山東省からの実習生19人と一緒に近くの小学校の体育館に避難した。毛布1枚に10人が足を入れて過ごすような状況だった。
3日後、ようやく工場を見に行けた。だが、どこまでが工場で、どこからが瓦礫か区別がつかぬ光景を目の当たりし、
「ああ、これはもう再建など数年はダメだな、もう一度工場をやれるのだろうか」
と心が折れかかった。が、その1週間後、工場の柱がしっかり残っていることを確認できた。
「折れるとか、曲がるとかせず、柱が意外としっかり立っていたんですよ。それでこの場所で復旧できるかもしれない、それには従業員の生活もあるし、得意先が離れないようとにかく急がなければと思い直しました」
大船渡は、本州一のサンマの水揚げ実績を誇る。サンマの水揚げの最盛期は秋。これに間に合わなければ復興は先延ばしになるどころか、大船渡も森下水産も全国の市場からも、取引先からも忘れ去られてしまう。森下の焦燥感は募った。行政の動きを待たず、4月上旬には瓦礫の撤去と魚の廃棄処分を自費で始めた。津波を被り、泥だらけのサンマやイカが3,000トン、3億円分腐って溶け出していた。重機を入れられず、手作業でビニールと魚を分別した。
「東京や大阪から足を運び、支援物資を届けてくださる得意先もいらっしゃいました。言葉にならないくらいありがたかったです」
市や地元の漁協も連携し、いち早く魚の廃棄場所を確保して復旧への道筋をつけ、森下水産が前へ進もうとする力をさらに後押しした。
「大船渡復興の先導役になりたい」
現場が瓦礫処理を進める一方で、森下は銀行との再建協議を重ねていた。震災直前、仙台や八戸に分散して保管していた原料や製品を大船渡に集約すべく、冷蔵工場を新設。そのための大型融資を受けたこともあり、多額のローンだけが残ってしまっていたのだ。
「地元金融機関の東北銀行も岩手銀行も、支援するから復興に向けて頑張ろうと応援してくれました。前向きに数十回もの交渉に応じ、励ましてくれました」
これまでに抱えていた債務と、復旧のため新たに掛かる資金、いわゆる二重ローンを解決するため、県の産業復興相談センターを訪れ、東京の大手監査法人にも助力を仰いだ。必要書類が津波で全て散逸していたが、監査法人の担当者は毎週のように東京から大船渡まで通い、森下をはじめ経営陣の記憶を根気良く喚起させ、資料作成に邁進した。おかげで実現性の高い再建計画が立ち、秋までに金融機関から融資が下りた。
この間、得意先の商権を守るため、青森県の水産加工工場を紹介してもらい、生産を継続した商品もあった。森下水産だけが手掛ける人気商品だったためだ。新たに機械を購入して置かしてもらい、社員2名を派遣して常勤させ、製造した。損得を超え、人情を優先させたのだった。
地元水産組合の十数社と組んで申請したグループ化補助金の採択も無事に受けることができた。これによって復旧に拍車が掛かり、何とか秋までに生産を再開することができた。
「大船渡の基幹産業である水産業が元気を出し、町を牽引していく意味でも、間に合ってほんとに良かったと思います」
森下の父は漁師だった。200海里の問題が勃発して以降、採算が取れなくなり廃業した。森下は地元の水産関係の組合に10年以上勤め、購買や全国への販売を担当した。その中で職員の限界を感じ、82年に独立を決意した。創業30周年を直前に被災したのだった。
震災によって、うれしい新たな出会いもあった。東京のデザイナーがボランティアで新しいロゴを描いてくれたのだ。
「ライフジャケットを着た魚をモチーフにしたイラストですが、かわいいし、明るいし、一目見て、これなら従業員も、町の人も希望を持てそうだ、気持ちも和むんじゃないかと感じました。 会社の壁に大きく描いたところ、写真を撮っていく方もいるようで、沈みがちな町にささやかながら話題を提供できたかなと思います」
地域の発展につながっていくような新たな事業展開を模索していたところ、今年3月には三菱商事復興支援財団と出合い、出資を受けることになった。
「新しい土地に新工場を建てます。サンマの刺身やイカソーメンなどの加工の他、簡便においしく魚を食べたい消費者ニーズに対応していく考えです。骨を抜いたフライや竜田揚げのみならず、焼魚や煮魚も商品化し、対米HACCP認定工場の強みを活かし、世界市場も視野に入れたい。将来的には100億円超の水揚げを目指す、大船渡の新しい魚市場が来年3月には完成予定。生産者、流通業者、加工業者が三位一体となって復興していくための先導役になりたいと思っています」
(敬称略)