産業復興・雇用創出支援
支援先紹介 | キャピタルホテル1000株式会社

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当財団の産業復興支援第1号案件となった、岩手県陸前高田市の「キャピタルホテル1000再建事業支援」。陸前高田唯一のホテルで、市の象徴的存在だった旧ホテルは、10月20日に閉館式を開催。新ホテル建設地は造成がほぼ終了し、着々と再生へ歩みを進めている。キャピタルホテル1000の畠山直樹社長に同ホテルのこれまでや、震災当日の様子、事業再建にかける思いなどを訊いた。

脇目も振らず営業しなさい

畠山社長は1972年陸前高田市生まれ。同市の中心を流れる気仙川で泳ぎ、育った。気仙川には昔から、錘の下に三本針の針をつけて鮎を引っ掛ける、『ガラ掛け』と呼ばれる独特の漁法があり、ランドセルを置くと毎日川に向かった。小学校時代はまた、陸前高田の道場で柔道に打ち込む。中学からは野球部に転向し、県立住田高校では一番サードで鳴らした。

卒業後は叔父の勧めで東京の宝石商で働くも、「早く地元に戻りたい」との思いが強く、1年で退社。高校時代の野球部の先輩に誘われ、キャピタルホテル1000の経営母体だった旧・りっけん観光に入社した。同社でノンプロ野球の世界を経験したのち、野球部退部後は陸前高田に戻り、キャピタルホテル1000に配属。宴会や結婚式の配膳を担当後、1999年に仕入れに回る。朝三時に起き、仙台の市場へ通う日々。金華山沖で獲れる根つきのサバや気仙沼にあがるメカジキ、塩釜に入ってくるマグロなど、三陸沖の海の幸の仕入れに奔走した。2004年、宿泊営業に異動すると強烈な出会いが待っていた。

ホテルはその3年前、民事再生法の適用を申請。経営再建を託され送り込まれたのが後の会長・小山剛令である。小山は徹底した合理化と効率化を進め、累損を一掃するほど辣腕を揮ったが、畠山からすれば、めったに笑わず、常にムスッとした怖い上司だった。

「初対面でいきなり言われたのは、『今のままでいい、脇目も振らず営業しなさい。会議には出なくてよろしい』でした」

畠山は敏腕営業マンだった。

「小山とは、売上目標を設定するため、年に一度会うくらい。会議に出ると、『なんでここにいるんだ。おまえは目標さえ達成すればいいんだ』って怒鳴られました。ただし、小山がすごいのは、『経費を削減しろ』、『出張に行くな』とかは一切言わなかった。つらかったのはつらかったですけど、仕事はしやすく、ありがたかったです」

もっとも、畠山ももともと営業経験はゼロの素人だった。カラオケでは福山雅治の『桜坂』を十八番に常に先陣を切るなど、体育会系のノリで宴会の座持ちの良い彼は、同業の集まりで他社の先輩たちに可愛がられ、教えを受けた。お互いに柔道経験者であったことが縁で意気投合した先輩からは、全国各地への営業行脚に誘われ、行く先々で、「じゃあ、陸中海岸大縦断ツアーの一泊目は宮古周辺にして、二泊目はキャピタルさんにしましょう」と言ってもらえて販路を飛躍的に拡大したのだ。

人って、独りじゃないんだ

昨年3月11日、翌日にひかえた娘の中学校の卒業式の準備を午前中に済ませると、午後2時過ぎいつものクリーニング屋にYシャツを持って行った。なじみの店員としばし言葉を交わし、店を出たのが2時半。旅行会社を招いての懇親会に出席するため盛岡へ向かう途中、被災した。

「運転中、携帯から突然、わけのわからない変な音がした。壊れたのかなと思い、そのまま運転していたら、いきなり下のほうからドーンと突き上げるような感じがして停車した。それが運の悪いことに橋の上。橋の継ぎ目がヒビ割れ、付いたり離れたりするのが見え、橋の向こう岸では土砂崩れが始まり、正直『人生終った』と覚悟した」

地震が収まりあわててUターンして地元に引き返すと、市街地には通行止めで入れなかった。一番上の林道まで急いで車で上がり、陸前高田の市街地を見下ろすと、もう町がなかった。数々の思い出に彩られた町が、津波による土砂で灰色一色になっていた。

海の目の前に立っていた旧ホテルは、3階部分まで津波が直撃。営業停止に追い込まれた

その後、幸い家族の安否が確認でき、以降1か月、消防団の活動に没頭していたところ、ホテル再建へ向け、小山から声を掛けられる。

「資金繰りとか、まったく何も考えられない状況だったんですが、どういう手法をとるかは別として、必ずホテルはやるって言い出したんですよ。もう一度高田でキャピタルホテルを再建させるんだ、と。それを夢として手伝ってくれって言われたんです」

元従業員を雇用してくれたホテルの経営者と小山との3人で再建策を模索する中、新会社設立と社長就任を打診される。

「そこまで高く評価してもらっていたのかという喜びの一方で、責任の重さに身が震え、引き締まる思いがしました」

そして再建の命運を左右する、岩手県のグループ化補助金の申請書作成を命じられる。

「必要な提出書類は、厚みにして3cm以上にも達しましたが、『一人でやるように』が小山の指示。周りの人間に相談もできず、事情を知らない仲間や友だちからは『こそこそ何をしているんだ』と言われたこともありました。もう一度やれと言われても、たぶんもうできないぐらいハードな作業となりましたが、とにかくこれまでで一番やりがいのあった時間でした。魂のこもった申請書になりました」

申請は無事採択され、小山から初めて「よくやった」と声を掛けられた。再建のめどがようやく立ったが、現在の一番の気がかりは、従業員の確保。まずは震災を共に経験し、つらい時期を乗り越えてきた、地元の新卒の高校生を採用すべく、各高校に募集の告知を行った。そのほかにも、建設費、資材費の高騰など、難問は山積みだが、畠山社長はこう決意を表明する。

造成が進む新ホテル建設予定地

「生まれ育った高田が好きだから、別の場所での再建は考えもしなかった。小山をはじめ多くの人の支えでここまで来られました。最近つくづく、人って、独りじゃないんだと感じます。三菱商事復興支援財団の出資が決まった8月16日には、自分も立ち会った記者会見の模様が7時のNHKニュースで流れました。すぐに取引先の社長からお祝いの電話が携帯に入り、号泣するところでした。営業の駆け出し時代、ある方に『業績を伸ばしたかったら、数字を倍にすることを目指せ』と教わりました。新たにもう一つホテルをつくる意気込みで事業に取り組んでいきます」

アワビやウニなど陸前高田の食材で、早くお客様をお迎えしたい、と話す畠山社長。来年6月のグランドオープンを目指す。

(敬称略)

10月20日、陸前高田市長も出席し行われた旧ホテルの閉館式