一人でも多くのお客さまの笑顔に出会いたい
当財団が取り組む「産業復興・雇用創出支援」は、“地元目線”を重視し、地元金融機関などからの情報を起点にしています。そんなパートナーの一つが、気仙沼信用金庫。1926年の創業以来、地元密着の金融機関として気仙沼の発展を支えてきた気仙沼信用金庫は、東日本大震災では12店舗中10店舗が営業休止に追い込まれました。しかし3日後には、他金融機関が市内で一切開いていない中、営業を再開。復興支援の現場最前線で陣頭指揮を執る地元信金マンの矜持を、気仙沼信用金庫・復興支援課の藤村栄治課長に伺いました。
「市民の暮らしを守らねばならない」
「通帳も印鑑も身分証も何もない。でも払い戻しを受けられた時のお客さまの安堵の表情を拝見したら、自分たちの判断は決して間違っていなかったと確信しました」
そう語るのは藤村栄治復興支援課長。藤村課長は震災当日、仙台にいた。信金中央金庫が開催した、保険窓口販売の研修会に出席していたのだ。
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「2月に耐震補強工事をしたばかりのビルだったのに尋常ではなく揺れました。すぐに机の下に潜り込んだのですが、天井から建材がパラパラと落ちてきました。正直、生きた心地がせず、全員が黙り込んでいました」
研修会は即座に中止が決定した。藤村課長は一路、気仙沼へ自分の車を走らせた。
「ビルから人があふれ出し、仙台の市街地を脱出するのに2時間。途中、ヒッチハイクしていた若者たちを気の毒に思い、乗せて送ってあげたりもしました。ようやく山間の道に入ると、車のラジオから流れてくるのは仙台南の荒浜で300人もの遺体が上がったというニュース。雪も降り出し、現実感がまるでありませんでした」
幸いにも被害が停電程度で済んだ内陸の支店に無事にたどり着いたのが午後10時。しかし、海からは遠く離れているのに土砂が道を覆い、津波に流された車があちこちに転がり、電柱がなぎ倒された光景に言葉を失った。
「支店の事務所で、非常電源で見たテレビに映ったのは、気仙沼市街地の大火災。場所が特定できず、その火の勢いに、気が気ではありませんでした」
夜間の移動は危険と判断し、日の出を待って本店に戻ると、瓦礫の山でどこから中に入ればいいのかも分からぬ惨状だった。
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だが、「皆全てを失い困窮している。市民の暮らしを守らねばならない。今必要とされているのは、まずはお金だ、とにかくすぐに店舗を再開させよう」という菅原務理事長の決断の下、被災3日後から市内2店舗で営業を再開。仮払いや預金通帳の再発行に応じた。職員は着の身着のまま、避難所から歩いて担当業務に精励した。数カ月にわたり食事を提供してくれた職員や自らトラックを運転し支援物資を届けてくれた仲間に大きな勇気をもらった。
お客さまとの強いつながり
「とにかく問題だったのは、本人確認でした。『顔見知りの職員はいませんか』とまずお聞きする。その職員がお客さまを確認して払い戻すという原始的な方法しかなく、時間もかかりました。それでも混乱はありませんでした。改めてお客さまとのつながりの強さを実感しました」
払い戻し業務の一方、職員自らの手で店舗の瓦礫処理も進めた。3月25日にはオンラインが復旧した店舗での営業を再開。5月下旬からは、ようやくお客さまのところを回れるようになった。普段着にリュックサックを背負い、長靴を履いてだった。
「この頃の仕事の中心は、お客さまの被災体験に耳を傾けること。それで少しでも相手が癒されるのであればという思いでした。とにかく話を聞いて、どんなことでもいいからお手伝いできないか尋ねて歩きました」
この頃、非常に印象に残っていることがある。会社も自宅も全て流され、従業員も社長も亡くされた女性が来店し、「主人が生前お世話になり、亡くなってからもご迷惑をお掛けするわけにはいかない」と、生命保険で借り入れを返済したいと申し出たのだ。
「諸先輩をはじめ、気仙沼信用金庫がお客さまとずっと信頼関係を築いてきたことを強く実感しました」
さらにお客さまに寄り添うべく、法人営業推進チームを母体に2012年4月には復興支援課を発足した。
他方、これまで接点の少なかったNPOとも連携し「三陸復興トモダチ基金」を創設して、起業、再雇用の助成、利子補給融資を始めた。また国のグループ化補助金取得への協力のみならず、全国から旅行誘致、地元産品のカタログ販売など、取引の有無に拘りなく、地域復興へきめ細かく支援を進めた。
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「夢中でさまざまな取り組みに挑戦してきたことで、人と人との縁が連鎖的につながってきたと感じています」
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その代表例の一つが、三菱商事復興支援財団との協働である。畜産飼料製造、ケーブルテレビ、バイオマス発電の3事業で協働案件を成立させ、さらなる案件を協議中。この2月には、財団と気仙沼市と共に『気仙沼きぼう基金』を設立した。財団と気仙沼信用金庫の支援により自立的経営を実現した気仙沼市内の事業者から財団が得る配当などを原資に、地域産業へ再投資する。復興資金が好循環する仕組みをつくり、地域経済のさらなる自立的な復興を後押ししようというものだ。
「職員一同、気仙沼への思い入れは人一倍強い。われわれにできることは限定的かもしれないが、知恵を絞り、地元の隅々にまでお手伝いの手を行き届かせて、一人でも多くのお客さまの笑顔に出会いたい」
(敬称略)
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